お友達と合流2日目
この日は早い時間に朝食だったのですが、レストランは中国の方で一杯、賑やかです。お友達の朝食の量は私の2~3倍、自分が食が細くなったのを再確認。今日も皆さんについて行けるよう、しっかり食べて頑張らなくてはです。
チェックアウトを済ませ、私達は最初の訪問先の飛騨古川の気多若宮神社に向かいました。
ここは3日前に一人で参拝し宮司ご夫妻にもご挨拶したのですが、お友達と再び参拝出来るこの幸せ。皆で境内を巡り一通り参拝を済ませた時、お友達の一人が「出来れば公式参拝したい」と。
社務所で従兄弟の奥様に相談すると、宮司のSさんは草刈り中との事。そのSさんに連絡を入れて下さり、暫くすると作業着のSさんが汗をふきふきやって来ました。「今からだと着替えて準備しなければならないので、午後1時からなら出来ます」との事。1時まで待つのはスケジュール的に難しいのを伝えると、Sさんは拝殿を開けるよう奥様に言われました。そして私達はお言葉に甘えて中に入り、Sさんが拝殿の外で見守る中、拝殿の中で参拝させて頂けたのです。
ホッとして気多若宮神社を後にして、この日の午後巡る飛騨市神岡町は外食できる場所が無いに等しいのに気付きました。それで飛騨古川で昼食となり、お友達の鼻で捜したのがこの店「西洋膳所まえだ」です。飛騨牛が名物で、お友達はステーキのコース、私はベジタリアン料理がないので一番軽そうな海老フライ御膳。
海老が4匹も! 海老を食べるのは20年振り、恐る恐る有難くいただきました。
午後のハードスケジュールに備えて腹ごしらえした私達は、飛騨古川から峠を越えて飛騨市神岡町へ。神岡町は鉱山の町、私が育った場所です。
町の真ん中に高原川が流れ、この川は神通川となって日本海へと流れています。川の両岸は嶮しい山で、江戸時代に鉱脈が発見されてから鉱山経営が行われて来ました。
明治以降、亜鉛、鉛、銀などの鉱山として栄え、最盛期の1960年頃の神岡の人口は27,000人以上(現在は11,000人)。2001年に閉山となりましたが、鉱石を掘った山の地中の空洞を利用して「スーパーカミオカンデ」と言う東京大学の素粒子研究施設が作られました。神岡の歴史は鉱山の歴史でもあります。
↑ 最盛期の神岡は、いたるところに鉱員住宅が建てられ、夜は住宅がある山の斜面は家の灯りで明るくなるくらいだったとの事。(船津醤油さんのホームページからお借りしました)
私達は町を見下ろせる大津神社に車を止めました。大津神社は創始年代は不明の古い神社で、飛騨の言い伝えではは高御産巣日神(高木神)の四男が住んでいた宮と言われています。明治28年の大火で消失し明治30年に現在の場所に移転しました。
広い境内の片隅で老人会の方々がゲートボールをしていました。すると急に激しい雨が降って来て境内は私達だけに。拝殿の軒先の下で雨宿りしながら私達はゆっくり参拝。暫くすると雨が止んだので、夏越の祓い茅の輪の下でワンショット。
私達は町を見下ろせる崖に立って、山、川、植物、鉱物に祈りを捧げた後、次の訪問地スーパーカミオカンデのある東茂住に向かいました。
スーパーカミオカンデは、宇宙から降り注ぐ「ニュートリノ」という素粒子の一種を観測する施設で、小柴昌俊博士や梶田隆章博士のノーベル賞受賞に繋がった場所です。
写真出典:「東京大学宇宙線研究所」
私はこの山の上に小学校1年~3年まで住んでいました。冬はバスも通らない陸の孤島となり、山の上の鉱員住宅に住む人達への物資の供給は、鉱石を運ぶ「鉄柵」と呼ばれていた空中ケーブルだけ。この山の頂上である池の山に遠足に行った時、途中で熊が出て中止になり引き返した記憶があります。
私達はこの山の麓に車を止め、山の地中が空洞になるほど鉱石を与え続け、今なお人間に貢献し続けて下さっている、この山にお礼を申し上げ深く参拝したのでした。
これでお友達との参拝の旅は終了。私は途中神岡で降ろしてもらい、お友達はそれぞれの帰途についたのでした。